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都であり続けた京都、変革を強いられた東京

「ポmagazine」編集部
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噂の広まり

殿堂入り

旅人が見た京都はおもしろい。 旅人が京都で過ごした日々の寄稿シリーズ 「エッセイステイ ~あの人が見た京都~」第二弾をお届けします。

今回のエッセイ・ステイを書いてくれたのは、編集者でありジャーナリストでもある江口晋太朗(えぐちしんたろう)さん。都市や地域に着目し、街の課題や可能性を発見していくという説明がなかなか難しいお仕事をしています。

東京を起点にこれまでたくさんの街を見てきた江口さん。そんな知識と経験に基づいて書かれたエッセイは、京都に住んでいるとかえってわからない「京都が京都たる理由」をあぶりだします。東京という大都市とコンパクトな街・京都。双方を比較しながら語られる京都の姿を、ぜひご自身の視点とも比べながらお楽しみください。

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九州で育ち、大学から東京に出てきて、もう十数年。7、8年くらい前から京都に足を運ぶことが多くなり、ここ数年は年に何度か訪れている。

泊まりはホテルよりも知人の家を間借りすることがほとんどで、今では観光というよりも、住んでいる東京とは別に、もうひとつ拠点があるような感覚。

行くたびに会う友人や、知り合いづてで紹介される新しい人とのつながり。飲み屋で偶然出会ったあの人や、よく行く喫茶店や居酒屋の軒先の風景……。身体知として、京都の街並みと記憶が自分の中に蓄積されていく。

そしてそんな京都と東京を行ったり来たりしていて時々思うのは、京都という都市には多層性や読解の難しさがあり、そこから醸し出されるなんともいえないおもしろさが漂っているということだ。そこには東京のおもしろさとはまた違った、京都の固有性が感じられる。

京都から東京へ、遷都の歴史

私が普段住んでいる東京は、多くの人が歴史で学んだように、徳川家康が江戸幕府を築いたところから発展してきた場所だ。

徳川家康が江戸に入ったのは1590年ごろ。当時は大きな町もほとんどなく、村々が点々とある土地だったという。そんな土地で海を埋め立て、抜本的な水路工事を行い、その水路を軸に経済を発展させてきた。そして江戸の整備にあわせて城の鬼門の方角に寛永寺、裏鬼門に増上寺を建立し、宗教的な加護を築いた。この鬼門信仰は、まさしく京都における比叡山延暦寺の関係になぞらえて建立されたものである。古くは桓武天皇の平安遷都以降、1100年近くにわたって都として栄えた京都は、江戸の整備においてもモチーフのひとつとされたのだ。それだけ過去の都としての都市計画の素地が、今の日本の都市作りにも影響を与えているといえる。

その後、江戸時代は265年間にわたる歴史の幕を閉じた。大政奉還によって政治の中心が京(京都)の朝廷に移り、明治政府が樹立。そこから江戸遷都論によって首都移転が具体化すると、京都の人たちからの猛反対にあうこととなる。

元々は京都が政治の中枢であり、首都は京都であったという歴史をなぞれば、首都移転に反発するのは当然だ。江戸と京都の両方を首都とする案(東西両都)が出てくるほど、京都の人のなかには、1000年以上首都であったことの誇りとともに、それ以外の記憶など無いほどに、「首都としての京都」を当たり前のものとする感覚があったのだろう。

明治元年(1868年)には「江戸を東京に改称し、天皇は東京で政治を行う」との証書が出され、明治天皇が初めて江戸に行幸。その翌年に東京に居を移された。東京という名は、江戸時代に三都構想(東京、西京=大阪、京=京都)という国家構想に言及した農学者の著書を大久保利通が読み、その影響を受けて付けられとされている。都としての絶対性はそれほどに揺るぎないものとして京都に存在し、今なお京都は日本の首都だと主張する人もいるほどだ。三都構想や首都移転という歴史的経緯は、京都にとって未練の残る過去なのかもしれない。

実験都市と中空構造都市

天皇が東京に移るも、それまで1000年以上も政治を司っていた場所である京都を中心にさまざまな経済や文化が築かれた。それは現在もそこかしこに見受けられる。朝廷文化とともに煌びやかで艶やかな技術に磨きがかけられたことが今日の文化の礎を築いただけでなく、京都近隣の都市に菓子文化や織物・反物文化が盛んな地域が多いのを見ても、京都は常に新しい文化や技術が集まる場所であったことがわかる。

一方、東京は江戸から現在まで数えても400年ほどの短い歴史しかない都市だ。しかし東京は、その短い歴史のなかで、江戸遷都と急速な都市開発、幕末の動乱を経た明治政府の樹立、その後の第一次世界大戦の騒乱や関東大震災による大規模被災とその後の帝都復興構想、第二次世界大戦に伴う敗戦と米軍占領と短い期間に大きな変革の契機が続き、そのたびに新しい都市の形を模索し、実践していった都市である。

都市社会論の専門家いわく、東京は3度の「占領」を受けた場所だという。1回目が徳川幕府による武蔵野台地東端の占領、2回目が1860年代終わりの薩長連合軍による江戸占領とその後の明治政府の樹立、3回目が1945年以降の米軍による占領。占領の度に過去を否定し、政治に翻弄されながら新たな変革が半ば強制的に作られていったといえる。

武蔵野平野の湿地帯から開拓を重ね、占領と変革を幾度となく繰り返し、災害や戦争による焼け野原から立ち上がるある種のガラガラポンが、経済を牽引する大きな原動力となった。変革の歴史を経た「政治と経済の中心都市・東京」は、いまや技術やグローバリズムのフロントライナーであり、ある種の「実験都市」としての様相を呈している。

一方、京都は太平洋戦争中に数度の空襲があったものの、その後は大きな被害もなく、過去にも大きな災害に見舞われていないために、今なお多くの文化財や古民家などの古い建物が建ち並ぶ京町家文化が保たれ、それらがある種の京都らしさを育んでいる。

京都には、東京のような占領や変革の経験がいい意味でないがゆえに、過去から現在までが一直線に結びつけられすぎているようにも感じる。もちろん、変革だけがすべてはない。しかし長年培ってきた文化の礎がある一方、あまりに長く政治の中枢であった過去の自明性、首都ではなくなったことによる喪失と未練、そして都の主人が不在であるという事実には、中空構造的な京都であり続ける引力があるように思えてならない。

ものづくりの精神に立ち戻る

ある意味で、戦後復興によってできあがった現在の東京はわかりやすい場所かもしれない。多様な人たちが集うことで新たな価値が生み出され、常に新たなものが生まれては消えていくサイクルによって文化が育まれる場所だ。そんな東京も、足下を見ると数多くの文化的な資源が多く存在するも、文化よりも市場経済優先で物事が進められがちがゆえの文化保全の難しさがあるなど、都市が抱える多くの課題をはらんでいる。

京都という都市は、その歴史の地層の深さと中空構造による過去への引力とが複雑に入り交じる難しさを抱えている。その複雑さが、ある意味では価値の源泉にもなっている。蓄積された歴史の多層性や培ってきた文化の多様性は、掘る場所や深さを変えるだけでその景色も様相も違う楽しみ方を浮き上がらせる。だからこそ、長年続いてきたものの延長ではなく、新たな変革を独自につくり出していく節目にきている気がする。

京都から新しい物事が生まれないわけではない。京都の雄・任天堂の礎を築いた故横井軍平が提唱した「枯れた技術の水平思考」に象徴されるように、その思考方法と実践にこそものづくりの精神は宿っているはずだ。

京都という複雑な場所から生まれる独自の創造性が、社会に新たな光を放つ時ではないだろうか。特にバブル以後の世代からは、独特な価値観や思考の芽が育まれているように肌で感じる。京都という都市がもつ歴史の重みを軽やかに受け止めながら、新しい世代ならではの創造力で物事を生み出そうとしている光がそこかしこで輝いている。その光を見逃さず、しっかりと受け止めていきたいものだ。

〈プロフィール〉
江口晋太朗(えぐち・しんたろう)
TOKYObeta代表。編集者、ジャーナリスト、プロデューサー。「都市と生活の編集を通じて、誰がもその人らしい暮らしができる社会に」をテーマに、都市や地域の経済開発、事業創造、ブランディングなど幅広く取り組む。著書に『実践から学ぶ地方創生と地域金融』(学芸出版社)『孤立する都市、つながる街』(日本経済新聞社出版社)『日本のシビックエコノミー』(フィルムアート社)他。

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