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東京・谷中で街について考える僕の原体験は、2002年の「過酷で贅沢」な京都旅

「ポmagazine」編集部
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旅人が見た京都はおもしろい。 京都以外の地域で暮らす人々が、京都で過ごした日々を書く寄稿シリーズ 「エッセイステイ 〜あの人が見た京都〜」。今回は第三弾です。

書いてくれたのは、東京・谷中で設計事務所「HAGI STUDIO」を主催する宮崎晃吉(みやざき・みつよし)さん。町医者のような視点で地域を丁寧に見つめ、街が生き続けるための仕掛けを埋め込む活動に取り組んでいます。

最低でも一年に一回は訪れるという京都ラバーぶりをみせる宮崎さんですが、その原点は過酷ながらも贅沢な体験となった学生時代の京都旅にあるとか。思わず京都へとバイクを走らせたくなる、ノスタルジーとエネルギーにあふれた旅行談をお楽しみください。

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東京の北東エリア、上野や日暮里にほど近い谷中という地域で、建築設計や場の運営をするのが僕の仕事だ。東京のなかでは戦災の大きな被害を免れ、戦前の面影や細い路地が残る地域であることから、街に折り重なる時間の痕跡を意識することは多い。京都も度重なる大火や幕末の戦禍、戦後の乱開発に耐え、まちの遺伝子を伝え続けている場所だ。だから京都には、街が生き続けるためのヒントを探しに何度も出かけている。訪れるたび新たな京都を発見する、そんな体験を重ねながらよく考えることがある。それは、街の印象というのは、訪れた先での体験だけではなく、その過程である「訪れ方」にも関係があるのではないかということだ。

僕が初めて京都に行ったのは、平凡ながら中学の修学旅行でのことだった。その時は当然団体行動で、言われるがままついて行った記憶がある。チームであらかじめ作ったタイムスケジュールに、一分一秒遅れまいと必死で、ほとんど旅を楽しむ余裕はなかった。

いちばん印象に残っている滞在は大学2年のとき。2002年だった。文字通り「そうだ、京都行こう」となった僕は、思い立ったその日に大学のキャンパスがある茨城県取手市から、原付(ホンダ・ジョルノ)で下道をのろのろと走りだしたのだった。

たしか当時付き合っていた彼女が先に京都に行っていて、それを追うようになんとなく西に行けば着くだろうと、東海道、国道1号線を走った。日本橋から都内をやり過ごして湘南の海岸線をひた走り、夕方にかかるころにぼんやり上り坂が続くなと思ったら箱根の山。うっかり上りはじめたらさすがは箱根、天下の険。坂道が原付の非力なエンジンをぐいぐい痛めつける。季節は初春だったのだが、日がかけ落ちるころになってなんと雪が降ってきた。

登るほどに強くなる雪は次第に吹雪いてくるほどに強くなり、上り坂でタダでさえ危うくスリップしかける原付に追い打ちをかける。往くもままならず、戻ることもできず。これはちょっと死ぬかも、と思った時にようやく箱根の温泉街までたどり着いた。

財布の中には数千円しか入れてこなかったので旅館らしい旅館での宿泊は無理だろう。そんな貧乏学生でも泊まれるところはないかと近くの宿に問い合わせたら、運良く公営の施設を紹介してもらった。その時に入った温泉の暖かかったこと。

翌朝は雪も止み、快晴のなか富士山を眺めながら静岡方面へ。茶畑を横目に容赦なく横を追い越すトラックに煽られ、信号にいちいち足止めを食らいながらも、どうしてもその日に京都に着きたかったので名古屋もよらず一気に駆け抜ける。こうして深夜の京都に命からがら到着したのだった。この間、給油は4回くらい。原付きのガソリン代は一回給油しても400〜500円程度なので2000円かからないくらいで来れたと喜んだが、次の日調子に乗って原付の鍵を無くし、その回復に2万ほどかかるという。なんともやるせない気持ちになったのだった。

滞在中に泊まったのは、「UNO HOUSE」というおそらく当時京都最安ではなかったかというゲストハウス。一泊1500円くらいで泊まった記憶がある。布団一枚分のスペースが与えられる雑魚寝部屋では、隣の布団で寝泊まりしていた男性と意気投合して彼に飯をおごってもらった。この方は当時、京大で再生医療の研究をしていた大学院生で、今では麻布十番にクリニックを構える立派な歯医者さんになっている。その時から現在まで、20年来交流が続いているのだ。滞在中は寺町三条の「1928ビル」でアングラ舞踏を観たり、寺を巡ったり(とりわけ大徳寺の高桐院にはすこぶる感動した)、「CLUB METRO」で踊り明かしたりと、その文化の厚さに圧倒され、忘れられない旅になった。

以来この通り定期的に京都を摂取しないといられない体になってしまい、最低でも一年に一度は必ず訪れているが、そのたびに発見する京都の変化には目をみはる。東京では「Nui.」や「CITAN」を手がけるBackpacker’s Japanによる河原町のゲストハウス「Len」はいつのまにか街によく馴染んでいるし、株式会社川端組の川端さんに案内してもらった二条城近くの「SHIKIAMI CONCON」には町家とコンテナ建築という出合うはずのない要素が一体となっていて度肝を抜かれた。ほかにもアートホステルの代表格だった「kumagusuku」が小規模アート複合施設に生まれ変わっていたりと、京都が歴史を伝える街でありながら、変化を恐れずその姿を更新する生きた街でありつづけていることが感じられる。

しかし何度訪れても、僕の原体験であり続け、僕にとっての京都の基点となっているのは、2002年の京都だ。もしあの時、いつも通り新幹線で訪れていたとしたら、これほどまで印象に残っていただろうか。かつての江戸の人々は自分の脚で街道を歩き、宿場町を転々としながら、京都を目指したのだろう。そのとき見えた京都の姿がどれだけ特別なものであったかを想像する。今となってはなかなか難しいかもしれないが、ときにはその「訪れ方」を変えてみることで、見えてくる京都の姿も変わるかもしれない。

〈プロフィール〉
宮崎晃吉(みやざき・みつよし)
群馬県生まれ。東京藝術大学建築科で学び、大学院修了後はアトリエ系設計事務所に勤める。2011年に地震を契機に事務所を退社。現在は東京・谷中の地で設計事務所「HAGI STUDIO」を主宰しながら、一般社団法人「日本まちやど協会」の代表理事を務め、まちをひとつの宿と見立てて宿泊施設と地域の日常を繋ぐ「まちやど」事業に取り組む。代表的な事業に「最小文化複合施設」である「HAGISO」、谷中の街と一体化するホテル「hanare」、西日暮里駅に隣接する空き家を活用した「西日暮里スクランブル」など。

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