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噂の存在となった「カフェさらさ」。独立組OB3人が振り返る、00年前後の「共犯関係」

「ポmagazine」編集部
「ポmagazine」編集部

噂の広まり

独り言

2026年4月、衝撃的な報道が京都を駆け巡った。「京都市内で4店舗のカフェを経営する会社が自己破産の準備に入った」──このニュースの主こそ、カフェブーム以前の1984年に開業し、京都のカフェ文化を語るうえで外すことのできない「カフェさらさ」だ。

創業から40年。地元客と観光客が心地よく混ざり合う場所として、淡々と営みを続けてきた京都ローカルのカフェ。今回の座談会に応じてくれた同グループ出身の3店もまた、それぞれ20年近くの歴史を重ね、京都の「ケ」の日常を支える存在となっている。

座談会が行われたのは、報道の少し前、2026年2月のこと。3店に共通するのは、SNSやグルメサイトの台頭によって飲食の価値観が大きく変わってもなお、揺らぐことのない足腰の強さとブレないスタンス。その源はどこにあるのか?そんな問いを手がかりに、2000年前後に同店を切り盛りした「さらさ第2世代」の独立組三者を訪ねた。

期せずして「噂の存在」となってしまった「さらさ」。3者と親交の深い〈誠光社〉店主・堀部氏の呼びかけによって実現された座談会は、かつてそこにあった「共犯関係」を呼び起こすものとなった。

この記事を書いた人

〈誠光社〉店主

堀部篤史(ほりべ・あつし)

1977年、京都市生まれ。学生時代より、京都のカルチャー発信地として名高い「恵文社一乗寺店」にアルバイトで勤務。2002年から店長を務める。2015年、独立系書店「誠光社」をオープン。取次を介さない「直取引」を中心とした独自の仕入れ形態を導入し、書店経営の新たなモデルを提示する。著書に『街を変える小さな店』など。書籍『本屋という仕事』にも登場。

座談会メンバー

〈かもがわカフェ〉店主

高山大輔さん

「大ちゃん」の愛称で親しまれる。2001年に「さらさ富小路」で3年間働いたのち、暖簾分けのかたちで2004年に「SARASAかもがわ」をオープン。2007年に改名して現店舗名に。さらさで培った現場主義と自由な発想を基盤に、長年地域に根ざした店づくりを続けている。

〈マドラグ〉店主

山崎三四郎さん

「フランソア喫茶室」「さらさ」で修業後、2011年に喫茶店「セブン」を引き継ぐかたちで「喫茶マドラグ」を開店。その後「喫茶ガボール」や「喫茶マドラグ 藤井大丸店」などを展開。2022年、サンマルクホールディングスの子会社になって以降も、マドラグのカウンターに立ち続けている。

〈ZANPANO〉店主

ニーヤンさん

紹介をきっかけに「さらさ西陣」に入り、店長として現場を支える。その後、2005年に「ZANPANO」を開業。京都のライブシーンを支えてきた音楽空間でもあり、アーティストとの親交も厚い。さらさ時代から続く奔放さと現場感覚で、独自の場をつくり続けている。

さらさに入ったきっかけ

──皆さんが「さらさ」で働き始めたのはいつ頃ですか?

高山大輔(かもがわカフェ店主、以下「大」):2001年かな。

山崎三四郎(マドラグ店主、以下「三」):僕は多分大ちゃんの2年前やから1999年やと思う。店でミレニアム迎えるときに「2000」の形したメガネかけてたの覚えてる。ニーヤンは僕より先に働いていた。

ニーヤン(ZANPANO店主、以下「ニ」):一ヶ月だけ先に入った。

──その頃は何店舗くらいありました?

大:まだ富小路と西陣の二店舗だけ。二人が働きだした後に、西陣がオープンした。

──三人はそれ以前に飲食で働いた経験はあったんですか?

大:三ちゃんだけ経験者だったんじゃない? 僕は、店をやりたいから最初の就職先を退社して「ノスタルジックカフェ」っていう、富小路の割と近所にあった店で働いたんだけど、わずか3ヶ月で潰れてしまった。その頃に客として通ってた「さらさ富小路」でこの二人が働いているのを観てた記憶がある。三ちゃんはロン毛で髭生やして、ニーヤンが人民帽被ってたの覚えてるわ。「エラい店やな」って。

そもそも「さらさ」自体の始まりは80年代にまで遡るんやけど、メディアに出るようになりだしたのが、僕らの世代からやった。

三:それ以前はメディアに出られなさそうな人達がやってた。「西部講堂でライブイベントやりながらよくわからない植物育ててます」みたいな。

──そういう雰囲気は受け取って「さらさ」に入ったんですか?ある種のコミューンぽさというか

二:三者三様やね。

三:僕はそもそも助っ人として入ったんですよ。いろんなカフェの立ち上げやったり、助っ人として手伝いをして回っているうちに、さらさのオーナーに声かけられて手伝うことになったんです。で、いざ手伝いにいったらニーヤンが居た。その前に働いていた「ZAPPA」っていうバーにお客さんとしてきてたから顔は知っていたんです「無印で働いてた人や」って。

二:こっちは「ええ歳して無印にお母さんと自転車買いに来てた奴や」って(笑)前職を辞めたときに、紹介で「さらさ」に入ることになった。当時は今の感覚とはちがって富小路ってめっちゃ町外れやった。そんなところで町家をリノベーションしてギャラリーもやってるみたいなオモロイ店、「町中(まちなか)の人間の感覚とちゃうな」とは思ってて、腰掛けぐらいのつもりで行ってみたら、履歴書も出してないのに「いつからこれんの?」って。

大:僕は当時彼女と富小路によく通ってたからそこで働きたかったんやけど、募集してなかったから最初は西陣で採用された。受かったんやけど、その後すぐ人手が足りなくなって富小路に移動したから、結局ニーヤンとは辞めるまで同じ現場では働いたことはない。

レシピも研修もない店

──入店当時の研修とか教育ってどんな感じだったんですか?

三:レクチャーなんてあったもんじゃないですよ。

二:「グランドメニューの作り方はこうこうで、以上」みたいな感じ。

三:ホール希望で入ったんやけど、ニーヤンに「今日パーティやから手伝ってえや」とか急に言われて、しょうがなく厨房に入ったつもりが次の週からガッチリ厨房で固められた。あのときニーヤンにパーティーの手伝いお願いされてなかったら未だに料理なんてやってなかったと思う。

大:僕もそうで、料理経験ゼロの状態でホール希望で入ったらキッチンに回されて、舐められんように偽物のロレックスして、有次で買ったマイ包丁持参して出勤したらいきなり爪とばした(笑)血だらけになって、そんな状態やのに「じゃあ来週から大ちゃんランチ担当しょっか」って。そんなもん作ったこともないし、誰も教えてくれへんから「オレンジページ」とか必死に読んで。

二:日替わりのランチに関しては、メニュー構成に関しても全て丸投げやった。バイトして一週間か二週間そこそこで、経営者から「来週のメニュー決まってないんやけど何したい?」「中華とかですかね」「じゃあ作って」とかそんなノリやった。だからスタッフ同士で話し合って、食べたいもの出し合って、どうやって作るのかわからんから料理本開いて。

よく覚えているのは三四郎と二人で「明日角煮にしよか」ってなったときに「角煮って八角いうやつ入れたらめっちゃ美味しなるらしいぞ」みたいな話ししながら、加減なんてわからんから、小袋の八角買ってきて全部鍋に入れたらものすごい匂いになって、「どないしよう」みたいな(笑)

京都カフェ文化の黎明期

──当時カフェって食事する場所っていうイメージはなかったし、ましてや凝ったものを食べに行く場所でもなかった。

三:若干エスニックやったら何でもOKみたいな雰囲気が当時の「さらさ」にはあった。

二:とんかつ出すのは微妙やけど、とんかつのなんとか風ソースとか、「風(かぜ)」めっちゃ使ってた。

──90年代はじめごろからグランピエが「無国籍料理」を提唱して出し始めたのが早かった、まだまだ食に関する情報消費が牧歌的だった時代。

三:グランピエがやってた「カプリーチョス」のあった北白川あたりからエスニックブームが起こって、ちょうどみんなが初めてタイカレー食べた、みたいな時期。当時のスタッフのみんなも飲み食いが好きな連中ばっかりだったから、とにかく色んなところ食べに足運んでなんとか毎日のメニューのヒントにしていたんです。もちろん全部自腹で。

大:よう覚えてるのが「潤徳」っていう神戸の有名な中華料理食べに行ったとき、三ちゃんが「この中華炒めめっちゃ上手いから店で出そう」って言い出したんやけど、そのまんまになってしまうとまずいから「ゴマふろか」って(笑)

二:三四郎は色んなところヘルプで入ったりしてたから経験豊富で情報収集能力もすごいと思い込んでたんやけど、ある日仕事帰り連れ立ってコンビニで立ち読みしてたら、えらい熱心に雑誌読み込んでるから気になってのぞいてみたら、「明日のランチに作る」いうて、載ってるレシピを必死に覚えてたという。

三:働いているメンバーが同じような世代で、感覚的にも近くて、文化的にも情報格差みたいなものがあんまりなかった時代だからこそ面白かったんやと思う。

仲間で店をつくっていた時代

──経営者からはアドバイスとか釘さされたりとかはなかったんですか?

三:ありましたよ。経営できひんくせに偉そうに言うことだけ言うてくるんです。僕らもどんぶり勘定で仕事するわけだから、材料費が32とか33%くらいになるんですよ。それに対して「30%にせえ」とかいうてくるんですけど、ロスもでるし、ムラもあるし、日替わりやし、現場の立場からしたら無理やって。

大:数字だけ見て内容見ずに場当たり的なことばっかり言うてくるから、こっちもタメ口で口答えとかしょっちゅうやった。一番よく覚えているのが、入って数ヶ月くらいの頃のミーティングのときに、「ニーヤンが寝坊して遅刻した。電話では30分遅れるって連絡してきたんだけど、来たのは二時間後だった。なんで二時間もかかったのか?」っていう話になった。そしたらニーヤンが悪びれることもなく「30分も2時間も一緒やろ」って返したんが衝撃で。「途中で喫茶店で漫画読んでたら二時間経ってた」とか言ってるの聞いて「こいつヤバいな」って。

二:全然覚えてないわ(笑)確かに言いそうやけど。

三:ただニーヤンは遅れて来るときに、素っ裸で入ってきたり、仮装してたり、なんらかの手段で笑かしてくるんで、経営陣に対してはともかく、対同僚に関してはしょうがないな、くらいでおさまってた。

大:覚えてるのは、入って一二年の頃に俺と三ちゃん呼び出されて、「ぶっちゃけ今200万くらい赤字なんですよ」って。で、返したら50万円くれるっていう話で、必死で働いて1年で返したことがあった。

三:まずはコーヒーを美味しくしようと、共通の知人であるオオヤミノルさんに豆をお願いして、ハンドドリップで入れだした。それでご飯を美味しくしようというのがその頃で、レストラン通いが始まった。

ー自腹で食べ歩きしたり、現場を良くするため経営陣に対抗したり、そういう店に対してのロイヤリティがあるカフェスタッフって、今ではなかなか考えられないですよね。

三:店に対してのロイヤリティっていうより、仲間に対しての意識だけでやってましたね。彼らがいたからこそやる気が出たというか、「寝てる間にオモロイこと起こったら嫌やからできるだけ起きとこう」みたいなアレですよ。従業員は従業員で結束して、経営者に反発しながらも、うまいこと火花散らしてたのが結果的に面白かったのかもしれないですね。

──その当時のお客さんってどんな感じだったんですか。

三:とにかく常連が多かったんですよ。僕らも当初はあんまり密に接するつもりはなかったんだけど、向こうからグイグイ来るような変わった人が多かった。

二:なんの仕事してるんか分からへんような。僕らが働き出す前からの常連。

三:一方で僕らが大事にしていたのが、美容師とかショップ店員。当時売上を上げるのに必死やったんで、お洒落な子らが常連になってくれたら他のお客さんもつられて来るんじゃないかなみたいな考え方があった。

大:あと、俺と三ちゃんは女の子のお客さんにどっちがモテるかみたいな競い合いが……。

三:大ちゃんはとにかく当時は人間的にろくでもなかった。ニーヤンはまだ遅刻とかはしょっちゅうで、社会的な部分では底辺みたいな感じはあったけど、人間的にはある種尊敬できる面もあるんですよ。でも大ちゃんは今でこそ大成したなとおもってるけど、当時のカスっぷりはすごかった(笑)ある日外国人のきれいな女の子が来て、「店長いる?」って訊かれたから、当時店長やってたから「僕やけど」って応えたら、「君じゃなくて店長は大ちゃんでしょ」って。モテたいがために、その子に「自分が店長だ」って吹いてたという。

──美容師さんとかショップ店員の話が出ましたけど、カフェがお洒落な場所になったのっていつからなんでしょうね。

三:2001年頃から周りでも「カフェコチ」が出来たり「アンデパンダン」がオープンしたり、ライバル店が増えてきたなというのはよく覚えています。その二店は出来たときは、「さらさ」のお客さんが目に見えて減った時期があった。やっぱりスタンスが似てたんでしょうね。

カフェ自体が僕らが思っていたコミュニティスペースから、お洒落なものとしてみなされるようになってきたのがその頃。そんな中で「さらさ」はどういう個性を出そうかという話し合いを真剣にして、まずはソフト面を強化してと出すものを美味しくしようと。お酒のメニューも増やして、とにかくフードメニューを強化した。

大:出しているものは定食やけど、休みの日はレストランに通いまくった。それで「あそこが美味いから」って情報交換をよくしていた。あと、やっぱりさらさの個性としては、創業の頃からなんやけど、ギャラリースペースを早くからやっていたし、店でライブしてたのも当時は他ではなかった。とにかく文化的な空間であろうとしていた。

三:町家を一軒使って、複合施設みたいなことをやってたのはやっぱり「さらさ」がはじまりだったし、当時町家なんかなんの価値も見出されていなかったんだけど、そのあたりは外国人の知り合いとかの目線も取り入れていたんだと思う。今とはまた違った意味での外国人のお客さんも当時から多かった。

──商品というソフトありきではなく、場というハードありきで段階的にソフトに力を入れたというのが面白いですね。

さらさ第二世代の独立

二:そのうち三四郎は本店に残って俺は西陣、大ちゃんは「SARASAかもがわ」に立って、三人がそれぞれ現場責任者になって、そっから第二幕が始まったって感じ。三人で集まって現場の意見を経営者サイドに報告するみたいな状況になった。

三:当時って、今みたいに人員不足や値上げでどうこういう話はなかったし、売上や店の運営に集中できたからまだ話はシンプルだった。人員は潤沢にいたし、スタッフ募集したらすぐに応募があったからね。

二:丸投げやった分、のりしろはいっぱいあるし、ライブでもやっていいなら良いバンド探してみよかとか、内装とかも勝手に変えてた。

大:トイレとかも勝手に工事してたもんな。当時石敷き詰めるの流行ってたから鴨川行って石拾ってきたり(笑)

三:いつの間にか店がどんどん変わっていった。そっから社内大クライシスが起こるんです。五人いた共同経営者が分裂して、いがみ合いをはじめて。

二:「君らはどっちにつくんや」みたいなことを言われて、その時「夫婦喧嘩に子どもを巻き込むな」ってはっきり言った。うちら現場のスタッフ抱えて気ようやってるのに、「どっちにつくねん」みたいなこと言われてもスタッフが可哀想やろって、どうせ辞めるつもりやったからめちゃくちゃ言うたった。

三:それからニーヤンが独立して「ZANPANO」を開業するって聞いて、めちゃくちゃ楽しみにしてましたね。大ちゃんはそのままの場所で独立してかもがわカフェをオープンして、僕はそのままさらさにしばらく残ったんです。当時三条会商店街がシャッター商店街みたいになってたんですけど、その中で一点だけ明かりが点っているイメージがなんかいいなと思っていて、たまたま空いていた物件を、ひろってきた材料とか使ってDIYで改装して「さらさ」オープンしたんです。そこが結構上手くいったから、出店路線に舵を切ったんです。

二人と違うのは、僕はどっちかというと拡大路線やったんです。でもやり方が厳しすぎて結果追い出されることになったんです。僕自身がマネージャーとして、各店舗の店長に対して厳しすぎたんですよね。まだ30代の半ばで熱量も高いし、三人でやってた頃みたいな熱量でやってしまうとついてこれない子が出てきた。やっぱり時代の変化もあったんでしょうね。

──両方あるんでしょうね。拡大したから一人ひとりのコミットが弱くなっていったのと、時代の変化でスタッフの勤労意識も変わってきた、上からの要求が強くはできなくなったという。そんな変わり目だったのかも

大:俺らは力抜いたりするのも上手いことやっていたんだと思う。なんでもかんでも言う事聞いてたらそらしんどいわ。

三:むかしの「さらさ富小路」の空気感を、いま引き継いでるのは、「かもがわカフェ」と「ZANPANO」と「マドラグ」の三店舗だけやと思います。

二:いまでも新しいメニューとか企画考えるときって、大ちゃんやったらどうかなとか、三四郎やったらどういうかな、みたいなことが頭をよぎる。最近は飲食経験無しで店始めるやつが増えているけど、正直今だに「なんでなん?」って感じやわ。

大:とにかくなんかやってみる、という精神はさらさ時代に培った。当時は全く意識してなかったけど、好きなことやらせてもらっていたことが経験になったのはありがたかったね。

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企画編集:光川貴浩、河井冬穂(合同会社バンクトゥ)

撮影(順不同、敬称略):原祥子